「価値自由(Wertfreiheit)」ってなに?事実と価値判断を分けよう

こんにちは。政治猫です。記念すべき解説記事第1回は、ドイツの社会学マックス・ウェーバー(1862-1920)の用語「価値自由」を選びました。

 

ところでみなさんは、「なんかこの人(達)と議論噛み合わないなあ」と思うこと、ありませんか?あるいはネット上だと、異なる立場の人々が延々と非難中傷合戦を行なっているのをよく見かけます。

 

その原因は何でしょうか?もしかすると、それは両者が「事実」と「価値判断」を区別せずに議論しているからかもしれません。

 

コップにコーラが半分入っている状態を思い浮かべてください。「コップにコーラが半分入っている」ことそれ自体は事実です。

 

それに対して、

A派は「コップにコーラが半分しか入っていない。コーラは美味しい。だからもっとコーラをコップに注ぐべきだ。」と考え、

B派の「コップにコーラが半分入っている。コーラはまずい。だからコーラを減らすべきだ」という主張と対立している。

 

対立はエスカレートし、B派はA派のことを「味覚オンチのバカだ」、A派はB派に対して「狂信的な健康オタク」とレッテルを張って対立しています。

 

さて、今の架空の例のうち、事実は「コップにコーラが半分入っている」ことです。それに対して「コップにコーラが半分も/しか」というのは「コーラが美味しい/まずい」という各々の好き嫌いに従った価値判断です。対立の根本が好き/嫌いにあるのなら、結論が論理的にまとまるはずがありません。両者の政治的な妥協が必要なのです。

 

自分の主張がそもそも「自分はコーラが好き/嫌いである」という前提に立っていることを十分に自覚し、対立の根本が「好き/嫌い」にあるとわかれば、「ああ、自分たちはコーラが嫌いだが、好きな人もいるんだ」と相手を理解することになるかもしれません。

 

こんな話をすると「なにを当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、日常において事実と価値判断が渾然一体となって議論が永遠の平行線をたどる、というのはよくあります。それらは、往々にして自分が立脚している前提となる価値判断を自覚していないことから起こると考えられます。

 

ところで、先ほどの「価値自由」ですが、岩波書店(2003:39)の『岩波小辞典 社会学』には

 

社会科学において認識の客観性を保つために、価値判断と事実判断を明確に区別し、価値判断を排除しようとする認識の方法。ウェーバーの用語。価値判断排除。没価値性ともいう。ウェーバーは、社会科学は自然科学と異なり、認識に主観性が入らざるを得ないと考え、その上で、経験的事実の確定と、良い悪いを判断する態度とを厳密に区別すべく格闘する禁欲的で厳密な態度を、価値自由の原則として訴えた。

 

と書いてあります*1社会学は、自然科学と違って社会の内側にいながら社会を対象として観察する学問なので、常に「自分も社会の一員であるために一定の価値観を有している中で、どのようにしてそこから自由になって対象を観察できるのか」が大きな方法論上の課題として存在し続けています。その中から生まれたのが「価値自由」だと考えられます。

 

私たちの日常においても、建設的な議論をする上で、価値自由の概念、自らの価値判断を自覚することは有用なはずです。

 

また、社会科学では、その言明がPositive(実証的)なのか、Normative(規範的)なのかを区別することが強く求められます。つまり自分が「Aである」と言っているのか、それとも「Aであるべき」と言っているのかを区別することが重要なのです。

 

この「価値自由」、事実と価値判断の区別は、覚えておいて損はないと思います。

 

記事を読んでいただきありがとうございました。

 

引用文献

岩波小辞典 社会学

岩波小辞典 社会学

 
社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

 

 

 

*1:原典はウェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』