規範(norm)ってなに?あなたが無意識に従うもの

こんにちは。政治猫です。

 

突然ですが、会社で働くみなさんは定時で退社するときに罪悪感を覚えますか?有給を取ることに勇気が要りますか?無職の方は、働いていないことに後ろめたさを感じますか?あるいは葬式中に笑ってしまったら「しまった」と思いますか。これらの感覚の共通項は何でしょうか。

 

今日は、社会学における最も重要な概念のひとつである「規範(norm)」について紹介したいと思います。といっても、基本的な事柄ほど説明は難しいものです。1+1=2であることは当たり前ですが、なぜ?と聞かれたら厳密に答えるのは大変なことです。また規範について学術的に深く掘り下げて整理することは今の私の力量を超えているので、それはまたいつか勉強してからやるとして、今回は紹介に留めます。

 

例によって岩波書店(2003:51)『岩波小辞典 社会学』を開くと、規範とは

 

社会的状況において人びとの従う規則であり、特に価値による行為の規整によって特徴づけられる。すなわち、人々によって実現されるべき価値(目標)についての基準、その実現の際にとられるべき妥当な行動様式の指示、そしてそれへの同調または違背に対して適用されるサンクション(賞罰)を含む。......現実の行為者である社会成員は、たとえば、家族の中のきまり、近隣の生活ルール、企業社会の規範、職業上の倫理、......等々の多様な、必ずしも整合していない規範のもとで行動している。......規範は個人によって時間をかけて習得され、内部化され、<内なる命令>の声となったり、ほとんど無意識に従われる行動様式となったりする。

 

と書いてあります。噛み砕いて説明すると、規範とは「葬式では、悲しい顔をするべき」、「企業人はなるべく休みを取らずに働くべき」といった暗黙の了解のようなもので、それらは「葬式とは、みんなで悲しむものだ」「無理して働くのは良いことだ」という価値や何らかの目的(協力など)の下にあり、それを破ると法で罰せられるまではいかないまでもバッシングされたり非難されたり、逆に守ったら評価されるなどという賞罰(サンクション)に支えられているものです。

 

社会通念を破った人がバッシングされるように、規範は賞罰によって裏打ちされているために、多くの人は規範を破るよりも守ることを選びます。しかも、そうした価値は自分の知らない間に内面化されており、葬式で悲しんだり、「社会人」として振る舞うことを当たり前だと思って疑うことなく従います。社会通念に従ってバッシングする人は、社会通念の妥当性を疑ったことはおそらくないでしょう(あるかもしれませんが)

 

ただし、この規範意識、たとえば「企業人はがむしゃらに働く」という規範意識時代や場所によって変化していきます。老舗の日系企業と、「Up or Out」と言われる外資系では規範の体系が全然違うでしょう。その違いの理由は、文化や歴史的な要因の他に、置かれている産業構造や形成されている労働市場などの構造的要因があるでしょう。

 

同じ時代や場所を生きていても、年齢や教育レベルの違いなどにより規範(女性は子供を産むべき、など)への態度が異なることがあり、それぞれの「当たり前」の違いで対立してしまう可能性もあります。家族内の規範と会社の規範、社会や法律の規範などが必ずしも同じではない場合があります。企業の組織の論理とコンプライアンスの要求がねじれた結果、何度も企業の「不祥事(カギカッコ付きであることに注意)」が起こり得るでしょう。また規範は、必ずしも常に目的に対して合理的だとは限りません。

 

一度「規範」を意識してみると、私たちが空気のようにいかに多くの「規範」を当たり前だと思って過ごしているのかがわかると思います。しかし意識してみると、「あれ、なんでだろう?」「おかしいな」と感じることが出てくるでしょう。もっと突き詰めて考えると、おかしいと感じていた原因を突き止められるかもしれません。そう思うだけで、「必ずしも従わなくていいんだ」と楽になるのではないでしょうか。またその規範がなぜ存在するのか、を考えることでその組織や集団の隠れた本質が見えてくるかもしれません。

 

こう書くと、規範が何か悪いもののように思えてしまうかもしれませんが、規範がなければ協力が発生しないことが多いし、それによって集団や組織が恩恵を受けることがあります。また、規範のメカニズムやその効用などについてはおいおい説明していきたいと思います。

 

読んでいただきありがとうございました。

 

引用文献

岩波小辞典 社会学

岩波小辞典 社会学

 

 

「価値自由(Wertfreiheit)」ってなに?事実と価値判断を分けよう

こんにちは。政治猫です。記念すべき解説記事第1回は、ドイツの社会学マックス・ウェーバー(1862-1920)の用語「価値自由」を選びました。

 

ところでみなさんは、「なんかこの人(達)と議論噛み合わないなあ」と思うこと、ありませんか?あるいはネット上だと、異なる立場の人々が延々と非難中傷合戦を行なっているのをよく見かけます。

 

その原因は何でしょうか?もしかすると、それは両者が「事実」と「価値判断」を区別せずに議論しているからかもしれません。

 

コップにコーラが半分入っている状態を思い浮かべてください。「コップにコーラが半分入っている」ことそれ自体は事実です。

 

それに対して、

A派は「コップにコーラが半分しか入っていない。コーラは美味しい。だからもっとコーラをコップに注ぐべきだ。」と考え、

B派の「コップにコーラが半分入っている。コーラはまずい。だからコーラを減らすべきだ」という主張と対立している。

 

対立はエスカレートし、B派はA派のことを「味覚オンチのバカだ」、A派はB派に対して「狂信的な健康オタク」とレッテルを張って対立しています。

 

さて、今の架空の例のうち、事実は「コップにコーラが半分入っている」ことです。それに対して「コップにコーラが半分も/しか」というのは「コーラが美味しい/まずい」という各々の好き嫌いに従った価値判断です。対立の根本が好き/嫌いにあるのなら、結論が論理的にまとまるはずがありません。両者の政治的な妥協が必要なのです。

 

自分の主張がそもそも「自分はコーラが好き/嫌いである」という前提に立っていることを十分に自覚し、対立の根本が「好き/嫌い」にあるとわかれば、「ああ、自分たちはコーラが嫌いだが、好きな人もいるんだ」と相手を理解することになるかもしれません。

 

こんな話をすると「なにを当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、日常において事実と価値判断が渾然一体となって議論が永遠の平行線をたどる、というのはよくあります。それらは、往々にして自分が立脚している前提となる価値判断を自覚していないことから起こると考えられます。

 

ところで、先ほどの「価値自由」ですが、岩波書店(2003:39)の『岩波小辞典 社会学』には

 

社会科学において認識の客観性を保つために、価値判断と事実判断を明確に区別し、価値判断を排除しようとする認識の方法。ウェーバーの用語。価値判断排除。没価値性ともいう。ウェーバーは、社会科学は自然科学と異なり、認識に主観性が入らざるを得ないと考え、その上で、経験的事実の確定と、良い悪いを判断する態度とを厳密に区別すべく格闘する禁欲的で厳密な態度を、価値自由の原則として訴えた。

 

と書いてあります*1社会学は、自然科学と違って社会の内側にいながら社会を対象として観察する学問なので、常に「自分も社会の一員であるために一定の価値観を有している中で、どのようにしてそこから自由になって対象を観察できるのか」が大きな方法論上の課題として存在し続けています。その中から生まれたのが「価値自由」だと考えられます。

 

私たちの日常においても、建設的な議論をする上で、価値自由の概念、自らの価値判断を自覚することは有用なはずです。

 

また、社会科学では、その言明がPositive(実証的)なのか、Normative(規範的)なのかを区別することが強く求められます。つまり自分が「Aである」と言っているのか、それとも「Aであるべき」と言っているのかを区別することが重要なのです。

 

この「価値自由」、事実と価値判断の区別は、覚えておいて損はないと思います。

 

記事を読んでいただきありがとうございました。

 

引用文献

岩波小辞典 社会学

岩波小辞典 社会学

 
社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

 

 

 

*1:原典はウェーバーの『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』 

政治猫のはじまり。きっかけは山本太郎と消費税増税。

はじめまして。政治猫です。

現在、大学院生として社会学を勉強しています。

 

ところで、みなさんは先日行われた第25回参議院選挙に投票に行かれましたでしょうか。

今回の選挙、私は山本太郎氏の演説を聞いて大きな衝撃を受けました。「死にたくなる社会から、 生きていたい社会に転換させる*1」。彼は熱のこもった政見放送でそう言いました。こんな政治家がいてほしい。たとえ嘘でもいい、建前でもいい、綺麗事でもいいから、そういうことを言う人が必要だ。そう思って、彼の経済政策には賛同しかねるものの私は彼に投票しました。

 

また私は生活がとても苦しいため、消費税の増税は大きな負担です。とてもじゃないけど受け入れられない。しかし消費税の増税は、淡々と、私の知らないところで勝手に決まってゆく。しかも、増税分が何に使われているのかよくわからない。それが悔しくて悔しくて仕方ありませんでした。

 

結局、山本氏が党首を務めるれいわ新撰組は2議席を獲得したものの、彼自身は落選しました。消費税もおそらく予定通り10月に10%になるでしょう。そして私の生活はますます苦しくなります。

 

こんなことでいいのか。自分の知らないところで物事が決まっていくのを傍観するしかないのか。私にできないことは本当に何もないのか。

そう思って、社会政策の勉強を少しずつ始めるとともに、このブログを立ち上げました。ブログの一風変わったタイトルのうち「連帯」は、社会学の開祖のひとりE.デュルケム以来の社会学の伝統的関心であり、私がこれからの社会の鍵になると考えている概念です(おいおい説明していきたいと思います)。

 

このブログでは、(1)社会政策まわりの勉強した内容のアウトプット(2)控えめな意見、を中心に書いていきたいと思います。

 

どうぞよろしくお願いします。

*1:れいわ新撰組HPより引用 https://v.reiwa-shinsengumi.com/activity/851/ (2019.7.23閲覧)